20180526
アスリートのブログを3年分通読しました。
(月一ペースだから、そんなに量はない)
感動しましてね。その前向きさ、ストイックさ、挑戦に。
それに引き換え私は、なんてつまらないことは言いません。
私は私である意味ストイックですよ。誰でもできることをやっているとは思いません。
そうではなくて、自律というこのブログのテーマにも通ずるのですが、
なぜ、アスリート、特にスプリント系のアスリートは、ストックになれるのか、ということについて考えました。
オリンピックで優勝したいから、という目標などがあるから、なのでしょうが、
それだけでは医学部に受かりたい、司法試験に受かりたい、と同じです。
目標だけではストイックになれないことは私がよく知っている。
冒頭のアスリートのブログを読んでいて気付いたのは、「楽しい」という記述が要所要所出ている、自分の成長を感じる場面で特に、ということです。
私ははたと膝を打ちました。
一人しかいない、事務所で。
「自分の成長に楽しさを感じる」
だから、こつこつ努力を重ねられる。
なるほどねぇ。
スプリント系なら、成長がタイムとなって表れるわけで。
しかし、資格試験はどうか。
合格か、不合格しかない。模試は直前の時期にしかない。
どのようにして自分の成長を測ったらよいか。
答練か。
でも、法律の勉強をして、「成長して、楽しい」と思う気がしない。
20180525
時間の制約があるなかどれだけできるかという。
勉強とまったく関係ないですが、物語が人間にとって不可欠だと思う今日この頃。
時代や人によって好まれる物語は変わる。
今の時代、様々な物語が存在するが、その語り口というか、文法、無意識の作者は共通なところがある。
そのことに意識的でないと、ゾンビになる。
表面的に流布する物語をただ消費するだけであってはいけない。
物語を受動的に読むだけの人であってはいけない。
物語のパターン、背後の意図を意識しなければならない。
そしてまた、自分自身で物語を語れるように研鑽しなければならない。
小説を書くとかそういう創作をするべきということではなく、
物語を語る能力を磨いていく必要があると感じる今日この頃であった。
暗記事項
【不登法】
登記名義人の氏名等の変更登記を省略できる場合とは:「所有権以外の権利」の「抹消登記」における「登記義務者」の氏名等の変更登記は省略できる。抵当権の債務者変更も。
所有権更正登記は必ず主記登記。
根抵当権に持分はない。ゆえに共有者の権利を一部譲渡できない。単独でしか分割譲渡できない。
根抵当権の優先の定めの登記は、全員で合同でする。共同ではない。
根抵当権の一部譲渡は確定前のみ可能。
要役地の表示、目的、範囲は、地役権の絶対的登記事項。対価、存続期間は登記事項ではない。
譲渡禁止を登記できるのは永小作権。
不動産先取特権の内、利息が登記事項となるのは不動産売買の先取特権のみ。
保全仮登記併用型で本登記がされると、処分禁止の登記が職権で抹消される。
仮処分に後れる権利が職権で抹消されることはない。
単独申請で登記識別情報を要するもの3つ。①所有権保存登記の単独抹消、②仮登記名義人による仮登記の単独抹消、③自己信託の変更登記
20180521
記述式のテクニック・ポイント。
予備校の模試解説講義のまとめ。
不登法。
・どの不動産の登記の回答を求められているか、確認する。何を問われているのか確認するという基本的なことだが、無駄な記載に惑わされないために必ず。
・不要な補足情報は削除する。無駄な振り返りを防止するため。
・申請登記リストを書く。今回、必要に迫られて書いたものをより洗練させる。
テクニック的なものはそれくらい。テクニックというほどのものでもない。
ポイントとしては、不動産所情報、名変の有無、相続の財産、相続人のリストアップなどのチェック。これまたあたりまえである。
商業。
登記不可問題対策としては、特に決議の有無をチェック。
役員タイムチャートの書き方。これはためになった。
やはり、記述式の問題は、さほど複雑ではない。ただ細かい、という印象。
細かい知識を正確に押さえて、落ちついて問題を整理すれば、なんとかなる。
と、思いたい。
20180520
模試でした。
なかなか厳しい結果ではありましたが、前向きにとらえる余地はあります。
択一に関して。
憲法、刑法は十分できるので何もやる必要はない。
肝心の登記法に関して、学習開始当初、あまりにもチンプンカンプンでどこが問いの焦点であるかすら認識できていなかったですが、今回は初見の問題でも「あぁこれか」と思えるレベルにはなっていました。
今の時期のこの段階ということは厳しいと言えば厳しいですが、確実にステップアップしている。正解を出す段階に行くには、さらに繰り返し学習をして、なかなか定着しない知識、核になる知識をまとめて暗記、という作業が必要かと。
記述に関して。
初めて本番タイプの記述式を解いた(解けてないが)。大量の資料が問題についているのに一瞬たじろいだ。しかし、時系列で整理すれば、さほど複雑ではない、かな。基本的な実体法、登記のルール、書き方を押さえれば、最低限なんとかなる、かな・・思いたい。
対策としては本番タイプの問題を何回か解いて、処理方法になれる必要があることと、単純な問題で基本的なルール、処理法を会得しておく必要があると思われる。
次の模試は、2週間後。
そのさらに2週間後にもある。
そして、そのさらに2週間後が本番。
とりあえず、次の2週間後の模試に向けて準備する。
2週間でできることは限られるが、
記述で必要な知識を急いで身につける。
択一はとにかく短期間で、大量に繰り返し、暗記事項を絞る。
試験だの、法律だの、うんざりだが、やるしかない。
資格を取ればそれだけで道が開けるとは思わないが、自分の中で次へ進むには必要。
そして法律をまったく関係のないことをやりたい。
20180519
鬱々とするときはどうでもいい文章を書くと気が晴れる。
勉強に関係ないことを2点。
その1.一人の時間。
家族でも他人でも、ずーっと誰かと一緒にいると嫌になります。
なので、一人の時間は必要です。
「別に大丈夫だし」
と思う人も、いつの間にかストレスをためて、かえって人間関係を破壊する言動に繋がることがあるので、積極的に一人の時間を確保すべきです。
「一人の時間があると、むしろ不安」
というひとはモンスター化している恐れがあります。
しかし、一人の時間が過剰にある人は、逆に人と交流しなければなりません。
人と交流するときには、特定の能力が必要とされます。
その能力は、使わないとどんどん衰えます。筋肉と同じです。
「あれ、昔はもっと社交的だったのにな」
と言う人は、一人の時間が多すぎで、社交筋が衰えてしまったのです。
筋肉は限界を超えるまで使い、超回復させないと肥大しません。
社交筋を鍛えるには、自分ではきついと感じる社交的状況にあえて身を置き、戦わねばなりません。
そしてまさに私自身が、その必要性を感じているのです。
その2.受け身だからつまらない。
昔から思ってはいました。飲み会に参加しておきながら、「つまらない」というやつは、嫌い。人ごみのなかで、「うわー、すごい人ごみ。ばかじゃないの。」というのと同じで、お前もその人ごみの一部だよという。お前もつまらない飲み会の一部なんだよ、という。そのくせ、どういう神経をしているのか、高所から「つまらない」と言えてしまう人間。うらやましい。
頭から論点がずれましたが、「つまらない」と感じるのは、受け身だからではないでしょうか。「え、楽しませてくれるんじゃないの?楽しませてくれないの?・・つまらない。」完全に受け身。自分が楽しませてもらえる側の人間だと思えるモンスター級の自己肯定力。うらやましい。
さて、仕事ですが、私自身、かりそめにも勤めていたときには、毎朝「死ぬほど憂鬱」でした。つまらない一日が始まることがわかり切っているのに、家を出て、電車に乗って、パソコンをカタカタしなければならないのですから。予想可能な日々をまとめてポイしたら、もはや老後、そして死。そのつまらなさの原因は、サラリーマンというステータスに由来するものだろうと、当時は考えていました。家畜から脱して、野生の状態に戻り、自分のエサは自分でとりまさぁ、とワイルドになれば、この憂鬱からは脱することができるだろうと、考えておりました。そして実際に起業したわけです。確かに、以前ほどはつまらなくはない。でも、本質的には「つまらない」ことに変わりはないと気づいた今日この頃。
なぜか。それは、受け身だからではないかと思うのです。サラリーマンだろうが、起業していようが、仕事を受け身でやっていては、つまらないのではないか。客から「こうしてほしい」と依頼を受けて、仕事が発生する。これがつまらない。客の要求にガチっとはまった仕事をしなければならない。「自分でやりゃいいじゃないですか」と思ってしまう。でも客は自分でやるのは面倒だから、金払って頼む。金払ってんだから、言う通りにきっちりやってよ、とくる。あたり前なんですけど、これって猛烈につまらない。こっちのモチベーションとしては、まぁ金もらえるからやりますけど。くらいなもので、面白くもなんともない。なんで面白くないか。客の要求にこたえるだけの、受け身の仕事だから。上司からの指示を受けて、給料もらってどうでもいい仕事をやっているのと同じ。
おもしろくするにはどうしたらいいか。受け身から脱すればいい。誰にも頼まれてないのに、ものすごくおいしいまんじゅうを作る→客「ものすごくおいしいまんじゅう、ちょうだい、お金払うから。」というのが、いいですね。「じぶんの口にはあわない」という人はそもそも買わないし、そいつにあわせたまんじゅう作る必要もないから。
ポイントは、まんじゅうではなく、そもそも「誰にも頼まれていない」ところから出発する、ということではなかろうか。需要を作る、市場を作るというと恥ずかしい感じですが、そういうことです。「こんなのできましたけど、いる人いますか?」という。
「頼まれたから、仕事をするんじゃない。頼まれてもいないのにしたことが、仕事になる。」
格言ですね。至言かもしれません。