20180703

日曜に司法書士試験を終えました。

解答速報にて択一式試験の採点をしてみました。

会社法、商登がぼろぼろで話になりません。

民法憲法、刑法が理想的にできたのはせめてもの救いです。

 

試験を終えたときにできたという感覚はなく、自己採点後もよい結果ではなかったのに、開放感がありました。

試験前の1か月はなかなかきつい精神状態でした。

とにかく試験から解放されたい、という。

このブログの文面からも現実逃避願望がほとばしっていたかと思います。

 

私の人生にとって法律とは何か、という問題があります。

齢28から学び始め、犠牲を払いつつ、学んできました。

資格と言うかたちで努力を結実しなければなりません。

「これだけ勉強してきました」といっても、

「でも**の試験に受かってないんでしょ」

といわれればけんもほろろ

受かる人は2、3年で受かるわけで、自分の適性はないということが自明な中で勉強を続けるのはなかなかハードです。

それでも合格が100だとして、自分の実力が0~30とかならあきらめがつく。

まなじ70~90とギリギリアウトなものだから、もうちょっとがんばろうと思ってしまう。このあと一歩の差が、致命的な差であるかもしれないのに。

もはや、法律云々というか、学習の方に力点が移りつつある。

もし、試験に受かったら、勉強に苦労している人にアドバイスできる気がする。

向いてない法律を使って働くよりも、その方が社会的に価値があるかもしれない。

 

などと。

20180629

刑務所に入りたくて犯罪を犯す人がいる。

もう社会で生きていけない、という人がそうなる。

その目的のための手段になってしまった被害者が浮かばれない。

しかし、これは切実な問題だなと思う。

 

この「社会」とはいったい何なのかと思う。

「国家」でもない。国家に属して生きるには、国家が定めた法律に従って生きていればよい。税金納めたりして。

しかし「社会」はそうではない。

明確なルールはない。でも、ルールはある。

その社会の構成員に受け入れられるか、拒絶されるか。

家族、学校、友人、職場、地域などなど、人のグループごとに社会はある。

社会ごとにルールは変わる。

しかし、日本社会全体を覆う膜のような「社会」もある。

それはマスコミや、ネット上の言葉によって流布される社会。

自分がどこの社会にも属することが出来ない=誰にも受け入れられないと感じたときに、人はどうしたらよいのか?

自分を変えるか、自殺するか、刑務所に行くか。

自分を変えられるなら問題は生じない。

人を殺すくらいなら自殺したほうがいいが、今の社会に適合しないから自殺しろとは言い切れない。今の社会に問題がないとはいえないからだ。

刑務所に行くには被害者を必要とする。これは最低。だが、現実的な抜け道がここしかないのかもしれない。

どこの社会にも属せない人間が生きる場所。罪を犯さなくても入れる場所。

そういう場所が必要かもしれない。

国がそういう施設を作ったら、税金で運営される以上、入所者は選別しなければならない。軽い気持ちで入られても困る。入所者は公民権ははく奪される(選挙権とか)。

いやーどうだろう。

 

 

20180623

爺と言うにはまだ早いが好々爺でありたい。

本来的に好々爺だが、好々爺でいると何処までも土足で踏み込んで切る輩がいるから、ときにはピュッと毒を吐かなければならない。

そして、世の中もそろそろ、お客様は神様です文化から脱却に向かうのではないかという予感がしている。

その根拠はメジャーなネット情報源をうろうろしていれば、巡り合うだろう。

落ち度のない店員に言葉を荒げる客に対しては、出て行ってもらう。二度と来なくていい、と言う。それが当たり前の世の中になってほしいと切に願う。

否、落ち度があったとしても、鬼の首を取ったかの如くクレームを入れるような人間は店側から拒絶されてしかるべきだ。

(別に自分がそういう目にあったわけではない)

店にも客を選ぶ権利がある。

いちげんさんお断りの夜の店もあるように。

いかれたクレーマーは、相手にする必要がない。

店側にとってのいいお客さんを大事にすればいい。

この点、小規模なお店の方が時代を変えるかもしれない。

私も時代を変えるような商売をしていきたい。

 

さて、某外資系コーヒーチェーンでバイトしていたとき、一回だけ客に大いに怒られたことがある。

その客はおそらくアメリカ人で、持参したタンブラーにコーヒーを入れてほしいということだった。新米だった私は、タンブラーの蓋を外してカウンターに置いた。

すると、その客は静かに英語でクレームを入れてきた。

「私は世界中の店舗へ行っているが、こんな対応をされたのは初めてだ。注意してくれ。」というような内容。

紳士的に怒られたせいで、私は大いに落ち込んだ。タンブラーをカウンターの上に置くことに特に何の意識もなかったのだが、確かに不衛生だから、カウンター内で処理すべきだったのだが、気付いた時には時すでに遅し。

こういうクレームは、完全にこちらに非があるし、相手の態度も立派だし、非常に勉強になる。素直に改善につながるから、こういう客は大事にすべきだろうと思う。

一方、コーヒーを提供するカウンターに肘をつきながら、いかにも摩耗した頭の悪いOLが舌打ちをしながら「急いでんだけど」とのたまい、提供したコーヒーを分捕るようにして持っていく様からは、軽蔑しか生まれない。二度と来るなと誰しもが思う。彼女がどれほど追い込まれていたのか知らないが、そうした態度は彼女自身をも不快にし、周りも不快にし、誰も何も得しない。

客は無条件に受け入れるべき神じゃない。神扱いしなくても、ダメなサービスは淘汰されるし、適切な改善もされる。むしろ、屑を神扱いすると、異常なサービスになっていく。日本ではそれをおもてなしというのかもしれないが。

20180615

王様の耳はロバの耳。

書く行為には癒しの効果があるらしい。

 

梅雨入りしたからか、暗雲垂れ込めたような気分が続いている。

きっかけはいろいろある。

ヒマな店番をしながら勉強しているという状況もそう。何やってんだろうと。だが、これは恵まれていることとも思える。恵まれた環境を活かしきれていないことに落ち込むと言えば落ち込む。

最大のストレス原因は、おっさん。私もおっさんだが。

ボランティアで、とあるスポーツ団体の活動を支援しているのだが、まぁ頭が悪いというか、そのくせ影響力を行使しようとしてくるザ・屑がいる。後出しで文句ばかり付けてくる屑がいる。いろいろいる。

なぜ屑か。そもそも尊大な態度で接してくる時点で屑である。そして、お前たちがこれまできちんと運営してこなかったために生じて、累積している問題をなんとか解決しようと策を講じて、改善しているのに、「何もわかってない」「そんなんじゃだめだ」「しょうがないから教えてやる」と言ってくる知能の低さに戦慄を覚え、嫌悪感を隠せない。それでも、実施前に、事前に、言い方はともかくとして、内容的には正しい指摘してくるなら我慢も出来る。しかし、すべてが終わった後に、重箱の隅をつつくようなことをほじくり返してネチネチやられた日には我慢ができない。あらかじめ言えよ。そのために情報を共有してきただろうが、と。何が目的なのか?トップである私をネチネチやることで、「実質的なトップは俺だ」とでも言いたいのだろうか?人間はどこまでいっても猿山の住人なのか?こういう屑どもが嫌で一人気ままに生きる道を探っている私なのに、一体私は何をやっているのか?お世話になった団体だから恩返しのつもりで役を引き受けたが、耐えきれないので次の人にバトンを渡すことを内心決めた。こういう屑に耐えきれないというのも、ある意味私の人格的欠点なのだろうと思う。サラリーマンではないから、そういうもの不慣れで、耐えられないのかもしれない。そして、一般的にはぐっと耐えるべきことなのかもしれない。それが社会人なのかもしれない。しかし、満員電車に耐えることと同様に、そういう屑おやじに耐えることは、私は人生の無駄としか思えない。何も得るところがない。

 ともかく、屑からくだらないメールが来るから(面と向かっては言ってこないところも屑)、「こうした不毛な追及がなくなるよう対策します」と返信したら、ぱたりと止んだ。

 屑は屑なりに居場所を探していたのかもしれない。その居場所を私は奪ったのかもしれない。そう思うと、少し申し訳ない気持ちにもなる。そういう感性が私の弱さであり、憂鬱のもとでもある。さりとて、私は屑とは関わりたくはないから、やさしく受け流したり、受け止めたりすることはできない。屑は厚かましく、そうした人のやさしさのうえに自己が成り立っていることに気が付かず、ますますつけあがる。

 人のやさしさの上にあぐらをかく。それは私自身にもいえることかもしれない。いや、多分にそういうところがあると思う。こうした気づきを与えてくれたことに、屑に感謝しよう。

 自分が未熟だなと思う。北アルプスのように、どんな屑が来ようと意に介さない大きな人間になりたい。遭難しても助けないという厳格さも同時に持つことになるが。

20180612

今度の日曜に最後の模試がある。

全3回の最後の1回。

 

模試は、記述のシミュレーションとして有用だった。

独学だと、わからないところが出てくると、

「なんだっけ」

とすぐに調べてしまう。

模試では、もちろん調べられない。

そうすると、どこが自分はわかっていないのかということがはっきりする。

 

また、模試は自分の力量がはっきり示されるという点でも意味がある。

模試の問題と本試験の問題は質が異なるとはいえ、やはり指標になる。

こうした模試は、年間通じてあってもいいように思う。

(あんのかな?)

 

くー。

20180530

ラジオについて。

ラジオを聞き始めたのは、大人になってからである。

中高生のときは、勉強中にラジオを聴くという漠然としたイメージがあり、そのイメージを具現化するために、高校のときに何度かラジオを聞いてみたことはある。

昔から早寝なので、夜10時くらいにやっていた広末涼子やジュディアンドマリーのラジオが限界。広末が「早稲田受かりました」的なことを言っていて、「あっそ」と思った記憶がある。そのころは夢中になるほど面白くもないと思い、3年間で通算10回も聞いていない。

そして、ラジオを聴きながら勉強などできない。

 

時を経て、2007年ごろ、ポッドキャストくりぃむしちゅーのラジオを聞いた。

これが面白くて、なんども聞いた。リチャードホールのDVDを観ていたということもある。

当時、早朝にバイト出勤というシフトがあり、憂鬱の極みだった。まだ日も明けぬ駅のホームで、スターダスト有田を聞きながら、なんとか日々をしのいでいたことを懐かしく思い出す。

大学院で、ラジオ好きに出会う。その人は伊集院のコアなファンだった。試しに伊集院を聞いてみたが、アクが強く、受けつけなかった。そのころの私はいまだくりぃむしちゅーのラジオ一辺倒で、放送は終了していたのだが、ユーチューブで過去の放送をあさり、聞いていた。そして、くりぃむしちゅーのラジオのハードリスナーだったという人とも出会い、過去の放送をまとめたUSBを借りたりもした。中高生のときにこういう深夜ラジオにはまっていたら、楽しかったかもしれない。しかし、夜中2時、3時に起きているということは今も昔も、私にはできない。ネットのおかげで、深夜ラジオを聞けている。

昨今、独立したくらいから、伊集院にはまった。ドクターペッパーのような、ストレートには受け付けないが、クセになる。構成のわたなべさんの笑い声が初めはムカついていたが、聞き進めるうちに、関係性がわかったり、単純になれもあって、どうとも思わなくなった。昔の方が激しいので、ユーチューブで昔の音源をあさって聞いている。

また、朝、テレビをつけると子どもがテレビに夢中になって朝食を食べなかったりするので、ラジオを付けることがある。FMのクロノスがちょうどいい。日中、事務所ではずっとFMが流れている。住吉美紀やら、名前を知らないがこざかしい好青年やらがしゃべっている。夕方、車の中でスカイロケットカンパニーを聞くのはいい。

こうしてみると、結構ラジオを聴いている。少なくともテレビよりは接している時間がながい。聴覚だけでいいので、「ながら」がしやすいのが一因か。

嗜好なので勝手にすればいいのだが、私は時期によって特定の芸人のラジオしか聞かない傾向にある。はまったものしか興味がなくなる、というと少しかっこよくなる。

ただ、反省として、視野が狭いと同時代にある面白いものに気づかない、ということがあるので、積極的に聞いたことがない人のラジオも聞いてみようと思う。

勝手にすればいいと思う。