20180519

鬱々とするときはどうでもいい文章を書くと気が晴れる。

勉強に関係ないことを2点。

 

その1.一人の時間。

家族でも他人でも、ずーっと誰かと一緒にいると嫌になります。

なので、一人の時間は必要です。

「別に大丈夫だし」

と思う人も、いつの間にかストレスをためて、かえって人間関係を破壊する言動に繋がることがあるので、積極的に一人の時間を確保すべきです。

「一人の時間があると、むしろ不安」

というひとはモンスター化している恐れがあります。

しかし、一人の時間が過剰にある人は、逆に人と交流しなければなりません。

人と交流するときには、特定の能力が必要とされます。

その能力は、使わないとどんどん衰えます。筋肉と同じです。

「あれ、昔はもっと社交的だったのにな」

と言う人は、一人の時間が多すぎで、社交筋が衰えてしまったのです。

筋肉は限界を超えるまで使い、超回復させないと肥大しません。

社交筋を鍛えるには、自分ではきついと感じる社交的状況にあえて身を置き、戦わねばなりません。

そしてまさに私自身が、その必要性を感じているのです。

 

その2.受け身だからつまらない。

昔から思ってはいました。飲み会に参加しておきながら、「つまらない」というやつは、嫌い。人ごみのなかで、「うわー、すごい人ごみ。ばかじゃないの。」というのと同じで、お前もその人ごみの一部だよという。お前もつまらない飲み会の一部なんだよ、という。そのくせ、どういう神経をしているのか、高所から「つまらない」と言えてしまう人間。うらやましい。

頭から論点がずれましたが、「つまらない」と感じるのは、受け身だからではないでしょうか。「え、楽しませてくれるんじゃないの?楽しませてくれないの?・・つまらない。」完全に受け身。自分が楽しませてもらえる側の人間だと思えるモンスター級の自己肯定力。うらやましい。

さて、仕事ですが、私自身、かりそめにも勤めていたときには、毎朝「死ぬほど憂鬱」でした。つまらない一日が始まることがわかり切っているのに、家を出て、電車に乗って、パソコンをカタカタしなければならないのですから。予想可能な日々をまとめてポイしたら、もはや老後、そして死。そのつまらなさの原因は、サラリーマンというステータスに由来するものだろうと、当時は考えていました。家畜から脱して、野生の状態に戻り、自分のエサは自分でとりまさぁ、とワイルドになれば、この憂鬱からは脱することができるだろうと、考えておりました。そして実際に起業したわけです。確かに、以前ほどはつまらなくはない。でも、本質的には「つまらない」ことに変わりはないと気づいた今日この頃。

なぜか。それは、受け身だからではないかと思うのです。サラリーマンだろうが、起業していようが、仕事を受け身でやっていては、つまらないのではないか。客から「こうしてほしい」と依頼を受けて、仕事が発生する。これがつまらない。客の要求にガチっとはまった仕事をしなければならない。「自分でやりゃいいじゃないですか」と思ってしまう。でも客は自分でやるのは面倒だから、金払って頼む。金払ってんだから、言う通りにきっちりやってよ、とくる。あたり前なんですけど、これって猛烈につまらない。こっちのモチベーションとしては、まぁ金もらえるからやりますけど。くらいなもので、面白くもなんともない。なんで面白くないか。客の要求にこたえるだけの、受け身の仕事だから。上司からの指示を受けて、給料もらってどうでもいい仕事をやっているのと同じ。

おもしろくするにはどうしたらいいか。受け身から脱すればいい。誰にも頼まれてないのに、ものすごくおいしいまんじゅうを作る→客「ものすごくおいしいまんじゅう、ちょうだい、お金払うから。」というのが、いいですね。「じぶんの口にはあわない」という人はそもそも買わないし、そいつにあわせたまんじゅう作る必要もないから。

ポイントは、まんじゅうではなく、そもそも「誰にも頼まれていない」ところから出発する、ということではなかろうか。需要を作る、市場を作るというと恥ずかしい感じですが、そういうことです。「こんなのできましたけど、いる人いますか?」という。

「頼まれたから、仕事をするんじゃない。頼まれてもいないのにしたことが、仕事になる。」

格言ですね。至言かもしれません。